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"{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/07/0706amidaji/070600top/070600top.php\",\"title\":\"阿弥陀寺〔あみだじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/07/0706amidaji/070600top/070600img/5tamidaji.jpg\",\"detail\":\"浄土宗〔じょうどしゅう〕 本尊阿弥陀如来坐像〔あみだにょらいざそう〕\\r\\r 江戸時代信誉上人〔しんよしょうにん〕により開山したと伝えられています。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1802ikomataisha/180200top/180200top.php\",\"title\":\"往馬大社〔いこまたいしゃ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1802ikomataisha/180200top/180200img/5tikomataisha.jpg\",\"detail\":\"往馬坐伊古麻都比古神社〔いこまにいますいこまつひこじんじゃ〕\\r\\r 縁起によると雄略朝に創祀されたと伝えられていますが、奈良時代の文書にある「往馬神」が初見です。祭神は、伊古麻都比古命など7神です。『延喜式』神名帳に「伊古麻都比古神社二座」とあるように伊古麻都比古命の祭祀は当初からで、火の神として尊崇を集め、宮中での大嘗祭の開催には火燧木〔ひきりぎ〕を献上する習わしがあります。神域は、小明から小平尾までの17村で、生駒谷と呼ばれる地域に当たり、かつては上大座・北方座・壱分座・下大座・六ツ座などの宮座が構成されていました。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/14/1404kitahoyoseki/140400top/140400top.php\",\"title\":\"生駒山北方窯跡〔いこまやまきたほうようせき〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/14/1404kitahoyoseki/140400top/140400img/5tkitahoyoseki.jpg\",\"detail\":\" 奈良時代、生駒山地の山裾を利用して窯が大量に作られました。俵口町から北新町にかけての一帯は、特に須恵器を焼いた窯跡が多数発見されています。この地域は「生駒古窯跡群生駒地区」と呼ばれています。生駒山北方窯跡は「生駒古窯跡群生駒地区」のなかにあります。標高約265m付近にあり、生駒山の中腹に位置しています。生駒地区の窯の中でも標高の高い場所にある窯跡です。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/13/1306izanagi/130600top/130600top.php\",\"title\":\"伊弉諾神社〔いざなぎじんじゃ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/13/1306izanagi/130600top/130600img/5tizanagi.jpg\",\"detail\":\" 旧上村の氏神で、祭神は伊弉諾命〔いざなぎのみこと〕、素盞嗚命〔すさのおのみこと〕、大己貴命〔おおなむちのみこと〕です。平安時代の『延喜式』神名帳に「伊射奈岐神社」として掲載され、『長弓寺縁起』では鎮守として牛頭天王〔ごずてんのう〕を祭ったと伝えられています。江戸時代には牛頭天王社と呼ばれていましたが、明治以降伊弉諾神社と改称されました。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/15/1508ichibukomori/150800top/150800top.php\",\"title\":\"一分コモリ遺跡〔いちぶこもりいせき〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/15/1508ichibukomori/150800top/150800img/5tichibukomori_nm.jpg\",\"detail\":\" 往馬大社から竜田川の西岸にかけてひろがる遺跡です。東向きのなだらかな緩斜面に遺跡がひろがっています。遺跡は古墳時代から中世にかけてのものです。市内の遺跡でもとくに重要な遺構が見つかっています。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/12/1208inakura/120800top/120800top.php\",\"title\":\"稲蔵神社〔いなくらじんじゃ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/12/1208inakura/120800top/120800img/5tinakura.jpg\",\"detail\":\" 小明の鎮守として江戸時代頃創建されたと考えられます。祭神は生魂明神〔いくたまみょうじん〕、大宮能御膳神〔おおみやのみかしわでのみこと〕です。境内には「烏帽子〔えぼし〕石」と呼ばれる巨岩を磐〔いわ〕座として祀っています。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/13/1304enshoji/130400top/130400top.php\",\"title\":\"圓證寺〔えんしょうじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/13/1304enshoji/130400top/130400img/5tenshoji.jpg\",\"detail\":\"真言律宗〔しんごんりつしゅう〕 \\r\\n\\r\\n 圓證寺は、筒井順慶(つついじゅんけい)の父である順昭(じゅんしょう)公の菩提寺として知られています。\\r\\n 室町時代に建立された本堂は重要文化財に指定されています。御本尊の木造釈迦如来坐像は鎌倉時代の作で、県指定文化財です。\\r\\n本堂の傍には、筒井順昭公の供養塔である重要文化財の石造五輪塔があり、御命日の刻銘が残っています。 また、ヒマラヤの峰々に見立てた石庭「雪山の庭」があり、仏法聴聞の場として心が洗われます。 \"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1808enpukuji/180800top/180800top.php\",\"title\":\"円福寺〔えんぷくじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1808enpukuji/180800top/180800img/5tenpukuji.jpg\",\"detail\":\"真言律宗〔しんごんりつしゅう〕 本尊阿弥陀如来坐像〔あみだにょらいざぞう〕\\r\\r 奈良時代に僧行基〔ぎょうき〕が開創したと伝えられていますが、詳細は不明です。安永3年(1774)に書かれた『十一ヶ村村鑑〔むらかがみ〕』には、「真言宗上醍醐報恩院〔かみだいごほうおんいん〕末寺」と記載されており、もとは真言寺院であったと思われます。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/04/0402enrakuji/040200top/040200top.php\",\"title\":\"円楽寺〔えんらくじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/04/0402enrakuji/040200top/040200img/5tenrakuji.jpg\",\"detail\":\" 高山竹林園内\\r\\n\\r\\n 中世生駒市北部を支配していた鷹山氏の菩提寺〔ぼだいじ〕で、法楽寺の末寺です。鷹山氏は、応仁の乱以後から戦国時代頃の興福寺一乗院衆徒〔いちじょういんしゅと〕で、旧境内地には一族の墓塔として、明応元年(1492)〜享保9年(1724)銘の五輪塔二十数基が並んでいます。鷹山氏が織田信長の命で伊賀へ転封された以降も堂舎は残りましたが、明治の廃仏毀釈〔はいぶつきしゃく〕により境内が取り壊され、現在は公園の一部となっています。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1814oganji/181400top/181400top.php\",\"title\":\"応願寺〔おうがんじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1814oganji/181400top/181400img/5toganji.jpg\",\"detail\":\"融通念仏宗〔ゆうずうねんぶつしゅう〕 本尊十一面千手観音立像〔じゅういちめんせんじゅかんのんりゅうぞう〕\\r\\r 沿革は不明ですが、萩原の檀那寺として信仰を集めてきました。\\r\\r\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1804ojoin/180400top/180400top.php\",\"title\":\"往生院〔おうじょういん〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1804ojoin/180400top/180400img/5tojoin.jpg\",\"detail\":\" 華厳宗〔けごんしゅう〕\\r\\r 輿山〔こしやま〕古墓群の中にあり、奈良時代の僧行基〔ぎょうき〕が天平21年(749)に没したとき火葬された生駒山の東陵にあたると伝えられています。本尊は行基菩薩坐像で、境内には宝篋印塔(重要文化財)などが残っています。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1822kakurinji/182200top/182200top.php\",\"title\":\"鶴林寺〔かくりんじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1822kakurinji/182200top/182200img/5tkakurinji.jpg\",\"detail\":\"真言律宗〔しんごんりつしゅう〕 本尊薬師如来〔やくしにょらい〕坐像\\r\\r 奈良時代に僧行基〔ぎょうき〕が開創したと伝えられていますが、詳細は不明です。『大和名所図会』には般若岩屋〔はんにゃいわや〕と記され、元は生駒山腹に滝や岩場に囲まれた広大な伽藍〔がらん〕がありましたが、江戸時代に当地に移転しました。旧鶴林寺跡(現在八大龍王)には、行者堂、庫裏〔くり〕、「峯の薬師」と呼ばれる石造薬師如来坐像〔やくしにょらいざぞう〕が残っています。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1820kyokoji/182000top/182000top.php\",\"title\":\"教弘寺〔きょうこうじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1820kyokoji/182000top/182000img/5tkyokoji.jpg\",\"detail\":\"真言宗醍醐寺派〔しんごんしゅうだいごじは〕 本尊如意輪観音像〔にょいりんかんのんぞう〕\\r\\r かつて当寺の境内は今よりはるかに広大で岩石が露出していたので役行者〔えんのぎょうじゃ〕や弘法大師が行場として開いたと伝えられ、『大和名所図会』には草房5、6坊が残ると書かれていますが、現在は中之坊が残っています。境内裏の小倉山は『新古今和歌集』所収の藤原定家の歌「しら雲の春はかさねて立田山をぐらのみねに花にほふらし」に詠まれています。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/17/1704kuragaritoge/170400top/170400top.php\",\"title\":\"暗峠〔くらがりとうげ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/17/1704kuragaritoge/170400top/170400img/5tkuragaritoge.jpg\",\"detail\":\" 西畑町と大阪府東大阪市豊浦町の行政界、生駒山南の鞍〔あん〕部・標高455.8mにあります。奈良−大和郡山市の榁木〔むろのき〕峠からこの峠を経て枚岡−難波に至る道を暗越奈良街道〔くらがりごえならかいどう〕といい、奈良時代から往来に使われました。『大和名所図会』には生駒山の南にある小倉山に続くので椋ケ根〔くらがね〕、又松や杉が生い茂り昼なお暗いので、暗峠と名付けたと記載されていますが、詳細はわかりません。俳人松尾芭蕉の句「菊の香にくらがり登る節句かな」、井原西鶴の著作『世間胸算用〔せけんむなざんよう〕』に所収の「奈良の庭竈〔にわかまど〕」に著されています。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1812koyuji/181200top/181200top.php\",\"title\":\"興融寺〔こうゆうじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1812koyuji/181200top/181200img/5tkoyuji.jpg\",\"detail\":\"融通念仏宗〔ゆうずうねんぶつしゅう〕 本尊阿弥陀如来立像〔あみだにょらいりゅうぞう〕\\r\\n\\r\\n 沿革は不明ですが、安永3年(1774)『十一ヶ村村鑑〔むらかがみ〕』には阿弥陀堂と記載されています。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1842koshiyama/184200top/184200top.php\",\"title\":\"輿山古墓群〔こしやまこぼぐん〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1842koshiyama/184200top/184200img/5tkoshiyama.jpg\",\"detail\":\" 輿山往生院の一帯にひろがる中世以来続く墓域です。生駒山からのびる尾根の先端部にひろがっています。現在も周辺地域の共同墓地となっています。鎌倉時代からの石造物が多く残り、埋葬、供養が行われてきました。歴史的にも規模的にも県下屈指の墓地となっています。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/14/1406konpirayoseki/140600top/140600top.php\",\"title\":\"金比羅窯跡〔こんぴらようせき〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/14/1406konpirayoseki/140600top/140600img/5konpirayoseki.jpg\",\"detail\":\" 生駒山東麓斜面標高170m付近に位置し、「生駒古窯跡群生駒地区」と呼ばれる窯跡群の中にあります。 \\r\\n 窯本体は既に消失していましたが、コンテナ約50箱、約13000点の須恵器が見つかりました。須恵器の種類は杯身と杯蓋が多く出土しましたが、皿や壷や甕なども出土しています。「生駒山北方窯跡」にくらべるとバリエーションは少なく、作られた時期も少し古いようです。 \"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/01/0102saihoji/010200top/010200top.php\",\"title\":\"西方寺〔さいほうじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/01/0102saihoji/010200top/010200img/5tsaihoji.jpg\",\"detail\":\"融通念仏宗〔ゆうずうねんぶつしゅう〕 本尊阿弥陀如来立像〔あみだにょらいりゅうぞう〕\\n\\n 本寺は、もと交野市の西傍示〔ほうじ〕にある八葉蓮華寺〔はちようれんげじ〕の末寺であった西方院と栴檀院〔せんだんいん〕が江戸時代に移転し合併したと伝えられています。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/12/1206shonotani/120600top/120600top.php\",\"title\":\"庄の谷遺跡〔しょうのたにいせき〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/12/1206shonotani/120600top/120600img/5tshonotani.jpg\",\"detail\":\" 長弓寺の門前に位置しています。富雄川の西岸の河岸段丘上にひろがっています。奈良時代を中心として弥生時代から近世にかけての遺跡です。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/08/0804susanoo/080400top/080400top.php\",\"title\":\"素盞嗚神社〔すさのおじんじゃ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/08/0804susanoo/080400top/080400img/5tsusanoo.jpg\",\"detail\":\" 天正3年(1575)に鹿畑の鎮守として祀られたのが始まりとされています。祭神は素盞嗚命〔すさのおのみこと〕で、摂社に大国主命〔おおくにぬしのみこと〕、末社に琴平明神〔ことひらみょうじん〕、天照大神〔あまてらすおおみかみ〕、春日明神、八幡神が祀られています。現在の本殿は、慶応3年(1867)に改築されたものです。神社には東大座・東中座・東小座・西座・西大座の五つの宮座が残っており、毎年10月に行われる例祭は、これらの宮座を中心に催されます。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/11/1104sumiyoshijinja/110400top/110400top.php\",\"title\":\"住吉神社〔すみよしじんじゃ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/11/1104sumiyoshijinja/110400top/110400img/5tsumiyoshijinja.jpg\",\"detail\":\" お松の宮と呼ばれており、饒速日命〔にぎはやひのみこと〕が降臨〔こうりん〕したと伝えられる交野市の磐船〔いわふね〕神社から松の苗を移したので、お松の宮という名称が付いたといわれます。創建は不明で、祭神は表筒男神〔うわつつのおのみこと〕、中筒男神〔なかつつのおのみこと〕、底筒男神〔そこつつのおのみこと〕、息長足媛命〔おきながたらしひめのみこと〕です。神域は旧北田原村と南田原村にわたります。本殿は文政6年(1823)の建築で石造の狛犬〔こまいぬ〕は文政9年(1826)の作です。神社の大祭は毎年10月15日に催され、歳暮には南田原長寿講〔ちょうじゅこう〕によるカンジョウ縄が奉納されます。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1816sekibutuji/181600top/181600top.php\",\"title\":\"石仏寺〔せきぶつじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1816sekibutuji/181600top/181600img/5tsekibutuji.jpg\",\"detail\":\"融通念仏宗〔ゆうずうねんぶつしゅう〕 本尊阿弥陀如来坐像〔あみだにょらいざぞう〕\\r\\n\\r\\n 沿革は不明ですが、藤尾の檀那寺として信仰を集めてきました。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/08/0802zenshuji/080200top/080200top.php\",\"title\":\"善修寺〔ぜんしゅうじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/08/0802zenshuji/080200top/080200img/5tzenshuji.jpg\",\"detail\":\"融通念仏宗〔ゆうずうねんぶつしゅう〕 本尊阿弥陀如来坐像〔あみだにょらいざぞう〕\\n\\n 建久4年(1193)に創建されたと伝えられています。元は真言宗寺院でしたが、改宗し鹿畑の檀那寺として信仰を集めてきました。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/15/1502daijotakidera/150200top/150200top.php\",\"title\":\"大乗滝寺〔だいじょうたきでら〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/15/1502daijotakidera/150200top/150200img/5tdaijotakidera.jpg\",\"detail\":\"真言律宗〔しんごんりつしゅう〕 本尊十一面観音立像〔じゅういちめんかんのんりゅうぞう〕\\r\\r 奈良時代に僧行基〔ぎょうき〕が開創したと伝えられていますが、詳細は不明です。江戸時代には融通念仏宗〔ゆうずうねんぶつしゅう〕に属していましたが、宝山寺の中興開山・湛海律師〔たんかいりつし〕が本寺をもらい受け、真言律宗に改宗し再興されました。明治13年(1880)には陽明学者・岡村 達〔とおる〕が宝山寺十四世貫主乗空の招へいで本寺に入り、広教学舎・真言宗中学林を開設し、生駒や近郊の青少年を対象に教育の普及に努めました。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/08/0806takayama3go/080600top/080600top.php\",\"title\":\"高山3号窯跡〔たかやまさんごうようせき〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/08/0806takayama3go/080600top/080600img/5ttakayama3go.jpg\",\"detail\":\" 生駒市内には、奈良時代の窯跡が多く確認されています。高山町から北田原町にかけての地域にも多く分布しており、「生駒古窯跡群高山地区」と呼ばれています。この地域には丘陵の尾根が複雑に張り出しており、こうした丘陵の斜面を利用して窯が作られていました。市の中央部の「生駒古窯跡群生駒地区」でも須恵器等の窯跡が多数発見されています。\\n\\n 須恵器の年代などから高山地区の窯は、生駒地区の窯より長く操業していたとみられます。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/04/0404takayamajo/040400top/040400top.php\",\"title\":\"高山城址〔たかやまじょうせき〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/04/0404takayamajo/040400top/040400img/5takayamajo.jpg\",\"detail\":\"高山の中世は、興福寺一乗院領の荘園となり「鷹山庄」と称されます。\\r\\nこの地を治めていたのが「鷹山氏」で、ここに城を築きました。\\r\\n鷹山氏は、興福寺一条院方の衆徒で、当時の記録にたびたび登場し、南都を中心に活躍したことがわかります。\\r\\n『大乗院寺社雑事記』の明応7年(1498)8月6日条には、「古市ハ高山城ニ在之」とあります。\\r\\nこの城の縄張りは、尾根の頂上に主郭があり、その東側から南西側に郭を配置して守りを固めています。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/07/0702takayamahachiman/070200top/070200top.php\",\"title\":\"高山八幡宮〔たかやまはちまんぐう〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/07/0702takayamahachiman/070200top/070200img/5ttakayamahachiman.jpg\",\"detail\":\" 天平勝宝元年(749)宇佐八幡宮の祭神を東大寺の鎮守〔ちんじゅ〕社に勧請〔かんじょう〕する際頓宮〔かりのみや〕を置いたのが始まりと伝えられていますが、創建年代についての詳細は不明です。祭神は足仲津彦命〔あしなかつひこのみこと〕、誉田別命〔ほんだわけのみこと〕、息長帯比売命〔おきながたらしひめのみこと〕で、鎌倉時代には、西大寺中興・叡尊〔えいそん〕が、当地で菩薩戒〔ぼさつかい〕を授け、又鷹山氏の氏神として尊崇されました。文明3年(1474)に焼き討ちに遭い、法楽寺薬師堂とともに炎上しましたが、その後再興されました。本殿前には拝殿、寛政11年(1799)の再興棟札をもつ舞台があり、東西に座の建物が並んでいます。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/11/1106tawaraguchi/110600top/110600top.php\",\"title\":\"俵口北窯跡〔たわらぐちきたようせき〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/11/1106tawaraguchi/110600top/110600img/5ttawaraguchi.jpg\",\"detail\":\" 奈良時代、生駒山地の山裾を利用して窯が大量に作られました。俵口町から北新町にかけての一帯は、特に須恵器を焼いた窯跡が多数発見されています。この地域は「生駒古窯跡群生駒地区」と呼ばれています。これらで焼かれた須恵器は、平城京へと出荷されました。俵口北窯跡は生駒地区のなかでも北の方に位置する窯跡です。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1810chikurinji/181000top/181000top.php\",\"title\":\"竹林寺〔ちくりんじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1810chikurinji/181000top/181000img/5tchikurinji.jpg\",\"detail\":\"律宗〔りつしゅう〕 本尊文殊菩薩騎獅像〔もんじゅぼさつきししぞう〕\\r\\n\\r\\n 奈良時代に僧行基〔ぎょうき〕が開創したと伝えられています。行基が建てた四十九院の一つ生馬山房〔いこませんぼう〕に比定されますが、詳細は不明です。文暦2年(1235)に竹林寺の僧によって文殊堂付近にあった行基の墓所から舎利瓶〔しゃりびん〕が発掘されて以降、行基信仰が盛んになりました。西大寺中興の祖叡尊〔えいそん〕・その弟子忍性〔にんしょう〕などの南都の僧も止宿し中興しましたが、明治の廃仏毀釈によって寺勢は衰退に至り、平成9年(1997)に堂舎が整備されました。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1826chikukohun/182600top/182600top.php\",\"title\":\"竹林寺古墳〔ちくりんじこふん〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1826chikukohun/182600top/182600img/5tchikukohun.jpg\",\"detail\":\" 有里町の竹林寺境内にあります。\\r\\r 古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳です。\\r\\r 生駒山から東に派生する尾根上に築かれています。\\r\\r 前方部を宅地で削られていますが、推定全長60m、後円部の径は約45mあります。\\r\\r 生駒谷を支配した豪族の族長の墳墓と考えられます。\\r\\r 一分コモリ遺跡の豪族居館との関係や、\\r\\r 生駒谷の古墳時代を解明するうえでもたいへん重要な古墳です。 \"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/13/1302chokyuji/130200top/130200top.php\",\"title\":\"長弓寺〔ちょうきゅうじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/13/1302chokyuji/130200top/130200img/5tchokyuji.jpg\",\"detail\":\"真言律宗〔しんごんりつしゅう〕 本尊十一面観音立像〔じゅういちめんかんのんりゅうぞう〕\\r\\r 『長弓寺縁起』によると奈良時代に聖武天皇〔しょうむてんのう〕の勅願〔ちょくがん〕によって僧行基〔ぎょうき〕が開創したと伝えられ、後に藤原良継が堂塔を整えました。塔頭〔たっちゅう〕は20ケ院あったと伝えられますが、現在は円生院〔えんしょういん〕、宝光院〔ほうこういん〕、法華院〔ほっけいん〕、薬師院〔やくしいん〕の4坊が残っています。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/11/1102chofukuji/110200top/110200top.php\",\"title\":\"長福寺〔ちょうふくじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/11/1102chofukuji/110200top/110200img/5tchofukuji.jpg\",\"detail\":\"真言律宗〔しんごんりつしゅう〕 本尊阿弥陀如来坐像〔あみだにょらいざぞう〕\\r\\n\\r\\n 寺伝によると奈良時代に聖武天皇の勅願によって僧行基〔ぎょうき〕が開創したと伝えられますが、詳細は不明です。境内後ろの生駒山東麓の丘陵一帯は中世に築かれた田原口城跡〔たはらぐちじょうせき〕と伝えられています。境内には本堂のほかに鐘楼〔しゅろう〕、熊野権現〔くまのごんげん〕社などがあります。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/15/1504nakanabata/150400top/150400top.php\",\"title\":\"中菜畑・一水口遺跡〔なかなばた・いっすいこういせき〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/15/1504nakanabata/150400top/150400img/5tnakanabata_nm.jpg\",\"detail\":\" 中菜畑二丁目付近にひろがる弥生時代から中世にかけての遺跡です。中菜畑・一水口遺跡は竜田川を境界にして、遺跡の北部は中菜畑遺跡、南部は一水口遺跡と細分できます。おおまかに、中菜畑遺跡は集落域、一水口遺跡は生産域となります。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1834nishibata/183400top/183400top.php\",\"title\":\"西畑遺跡〔にしばたけいせき〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1834nishibata/183400top/183400img/5tnishibata_nm.jpg\",\"detail\":\" 壱分町の竜田川の西岸に位置する遺跡です。河岸段丘の上の平坦な場所に遺跡がひろがっています。道路建設を端緒に発掘調査が実施され、重要な遺跡であることがわかってきました。弥生時代、古墳時代、奈良時代、中世の各時代の遺構が見つかっています。生駒谷でも指折りの集落遺跡です。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1828hagiwara/182800top/182800top.php\",\"title\":\"萩原遺跡〔はぎわらいせき〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1828hagiwara/182800top/182800img/5thagiwara.jpg\",\"detail\":\" 萩原遺跡は、萩原町の一帯にひろがる遺跡です。市内では古くから知られ生駒を代表する遺跡の一つです。暗越奈良街道に沿って人々の活動の痕跡が残されています。弥生時代、奈良時代、中世の遺構が発見されています。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/12/1202fukumanji/120200top/120200top.php\",\"title\":\"福満寺〔ふくまんじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/12/1202fukumanji/120200top/120200img/5tfukumanji.jpg\",\"detail\":\"融通念仏宗〔ゆうずうねんぶつしゅう〕 本尊阿弥陀如来坐像〔あみだにょらいざぞう〕\\r\\r 元は真言宗寺院でしたが、改宗し上村の檀那寺として信仰を集めてきました。\\r\\r\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/14/1402hozanji/140200top/140200top.php\",\"title\":\"宝山寺〔ほうざんじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/14/1402hozanji/140200top/140200img/5thozanji.jpg\",\"detail\":\"真言律宗〔しんごんりつしゅう〕\\r\\n\\r\\n 旧称は都史陀山大聖無動寺〔としたざんだいしょうむどうじ〕といい、延宝6年(1678)湛海律師〔たんかいりつし〕が中興開山しました。それ以前から滝の多い生駒山は修験者の行場として栄えていました。\\r\\n\\r\\n 般若窟〔はんにゃくつ〕と呼ばれる洞穴は特に信仰を集め、役行者〔えんのぎょうじゃ〕が開山し弘法大師〔こうぼうだいし〕も修行したと伝えられています。本尊は不動明王〔ふどうみょうおう〕で、聖天堂に安置される大聖歓喜自在天〔だいしょうかんきじざいてん〕も「生駒聖天」として市内外からの信仰を集めています。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1806hodoji/180600top/180600top.php\",\"title\":\"宝幢寺〔ほうどうじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1806hodoji/180600top/180600img/5thodoji.jpg\",\"detail\":\"融通念仏宗〔ゆうずうねんぶつしゅう〕 本尊地蔵菩薩坐像〔じぞうぼさつざぞう〕\\r\\r 奈良時代の僧行基〔ぎょうき〕の開創と伝えられていますが、詳細は不明です。『興福寺官務牒疏〔こうふくじかんむちょうそ〕』の嘉吉元年(1441)4月16日の条に寺名が挙がっているのが初見です。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/07/0704horakuji/070400top/070400top.php\",\"title\":\"法楽寺〔ほうらくじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/07/0704horakuji/070400top/070400img/5thorakuji.jpg\",\"detail\":\" 真言宗新義派〔しんごんしゅうしんぎは〕\\n\\n 奈良時代、東大寺大仏殿建立にあたり西北にあたる当地に王城守護のために聖武天皇が僧行基〔ぎょうき〕によって開創させたと伝えられています。永禄10年(1567)松永氏によって大仏殿が焼き討ちされた際、当寺も消失しましたが、鷹山氏により再興されたと伝えられています。薬師堂は棟札銘から寛文3年(1663)に再建されたことがわかります。\"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1840minonookamaro/184000top/184000top.php\",\"title\":\"美努岡萬墓〔みののおかまろのはか〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/18/1840minonookamaro/184000top/184000img/5tminonookamaro.jpg\",\"detail\":\"奈良県指定史跡\\r\\r 奈良時代の官人であった美努岡萬の墳墓です。1872(明治5)年に土取り中に偶然、墓誌が発見さました。墓誌は長方形の銅板で銘文を陰刻してあります。銘文から美努岡萬のものであることが明らかとなりました。現在は住宅地の中ですが、かつては山林の中にありました。古代の人物の墓所が明らかとなる例は県内でも少なく貴重なものです。 \"}{\"url\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/19/1902muryouji/190200top/190200top.php\",\"title\":\"無量寺〔むりょうじ〕\",\"img\":\"http://www2.city.ikoma.lg.jp/dm/19/1902muryouji/190200top/190200img/5tmuryouji.jpg\",\"detail\":\"浄土真宗本願寺派〔じょうどしんしゅうほんがんじは〕 本尊阿弥陀如来立像〔あみだにょらいりゅうぞう〕\\r\\r 寺伝によれば、本寺は元大和国萱野村教行寺の末寺でしたが、慶長7年(1602)の東本願寺別立以降、教行寺末を離れて本願寺派に属し、現在に至っています。\"}"